情熱弁当
自分のこだわりを押し付けない
食べるとは、誰もが毎日行うこと。
「食のこだわり」と聞くと、どこか誇らしげな響きがあります。素材を選び、調理法を工夫し、体を思う。その姿勢自体は尊いものです。
けれど、それを他人に強く押し付けてしまうと、とたんに距離が生まれるのもまた事実。
「これが正しい食べ方だ」と言い切った瞬間、相手の価値観との間に溝ができてしまいます。
食は「正しさ」ではなく「好み」
食の世界には「唯一の正解」なんて存在しないと、ボクは考えています。
塩むすび一つが最高だと思う人もいれば、具沢山のおにぎりこそ幸せだと思う人もいる。ある人にとっては苦味の効いたコーヒーが安らぎであり、別の人には甘いカフェオレこそ心を解きほぐす飲み物になる。
つまり、食とは「正しい・間違い」で測れるものではなく、「好き・嫌い」という感覚に委ねられているのです。
しかもその“好み”は、育った環境や記憶、人生経験に深く結びついています。
母が作った煮物を口にすると心が落ち着く人もいれば、学生時代に食べたラーメンこそ青春の象徴という人もいる。ある人にとってはただの一皿でも、別の人にとっては心の支えであったりするのです。
だからこそ「自分のこだわり=正しさ」と思い込むことは危うい。
他者の大切な記憶や物語を、否定することにつながってしまいます。
むしろ「私はこういう理由でこの選択をしている」と語ることが、最も誠実な姿勢なのではないでしょうか。
選べることが豊かさ
私が強く思うのは、「選択できること」そのものが食の豊かさを形づくっているということです。
戦時中であれば、サツマイモなど限られた食材ばかりを食べていたはず。好き嫌いを言える余地もなく、「あるものを食べる」しかなかった時代。そこに「食の自由」という概念は存在しませんでした。
今の私たちはどうでしょう。朝はパンにするかご飯にするかを選べ、昼はパスタにするか蕎麦にするかを迷い、夜は家庭料理にするか外食にするかを考える。時にはジャンクフードに手を伸ばすこともある。
その一つひとつの選択が人生を彩り、心に余白を与えています。
食べ物を選ぶことは、単なる栄養補給ではなく、「自分はどんな生き方をしたいか」を日々選び取っている行為なのだと思います。

情熱弁当のスタンス
情熱弁当は「無添加」や「国産」という軸を大切にしています。
しかし、それを唯一の正解として押し付けたいわけではありません。届けたいのは「こんな食の在り方もあるんだ」という提案です。
自然な素材の味を体にしみ込ませたいと思う人もいれば、今日は思い切りジャンキーなものを楽しみたいという人もいる。その両方があるからこそ、暮らしは豊かで、人生は面白いのです。
ボクの役割は、押し付けることではなく、もう一つの選択肢をそっと差し出すこと。
その選択が、あなたの「好き」に少しでも寄り添えれば、料理人としてこれ以上の喜びはありません。
好みが交わるとき
食べることは、生き方そのものを映す鏡です。
そして「好み」がぶつかるのではなく、交わる瞬間に、世界は広がっていきます。
相手の好みを認め、自分の好みも大切にする。その間に生まれる“ゆるやかな共有”こそが、食卓を豊かにし、人と人とをつなぐのだと思います。
大切なのは、「その食の先に幸せがあること。」じゃないのかな?
今日もまた、あなたの「好き」に寄り添える一品を作り続けられますように♪
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